インドネシア史(インドネシアし)では、インドネシアの歴史について述べる。
大まかに分類しても70余の民族が居住する多民族国家であるインドネシア共和国に国のまとまりが生まれたのは比較的新しく、狭義のインドネシア史は第二次世界大戦後の独立時代に過ぎない。そもそも、この地域がはじめてひとつの政治体によって統一されたのは、17世紀に建設が始まり20世紀初頭にようやく完成をみたオランダ領東インドの時代が最初であった。
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インドネシアが現在のような多島海に姿をあらわすのは、約1万年前におこった海水面の上昇によって、それまでジャワ・スマトラ・カリマンタンなどをアジア大陸につないでいたスンダランドが水没してからのことである。スンダランドとは、氷河期に陸化していたスンダ陸棚のことである[1]。
この地域での人類の活動は、スンダランドが陸化する以前の洪積世の時代にまでさかのぼる。1890年11月末、ジャワ島中部のソロ川上流にあるトリニルの洪積層で、オランダ人軍医、ウジェーヌ・デュボアが、下顎の骨を発見し、翌年の秋ごろに同じ場所で頭蓋骨を発掘した。さらに翌年、その頭蓋骨の発掘場所から15mほど上流で、大腿骨を発見した。これらが現在ジャワ原人として知られる直立猿人の発見だった。デュボアの発見後も、ジャワ島の中部・東部地方を中心に、石器とともに原人や旧人の化石人骨が発見され、旧石器時代にこの地域で人類が活動していたことが確実となった[2]。
紀元前2500年から紀元前1500年頃にかけて、中国西南地方から移住した民族があり、水稲耕作を行っていた。
後にインドネシアとなる東南アジアの島嶼部には、紀元前2千年紀からオーストロネシア語族に属する言葉を話すマレー系の民族が渡り、各島に定着していった。
ヒンドゥー化と仏教の伝来
紀元前1世紀の頃からはインド洋を渡ってインドの商人たちが訪れるようになり、ヒンドゥー教の影響を受けた独自の文化が発展し始め、5世紀頃から、ボルネオ島東部にクタイ王国、西部ジャワにタルマヌガラ王国が繁栄し始める。クタイ王国は、インドからマカッサル海峡、フィリピン、中国に抜ける交易ルートに位置していたためにインドからの船が寄航し中継貿易の利で繁栄したと思われる。
7世紀から11世紀にかけてスマトラ島南部パレンバンを本拠とするシュリーヴィジャヤ王国がマラッカ海峡を制圧し、南海貿易をコントロールし仏教文化が栄え繁栄を極めた。
ジャワでは、8世紀前葉に古マタラム王国とシャイレーンドラ朝が建国された。シャイレーンドラにより8世紀末から9世紀初めにジャワ島の中部に建設されたボロブドゥール寺院は、底部の一辺が120m、高さ約42mという巨大な大乗仏教の石造ストゥーバである。カンボジアやベトナム南部のチャンパ王国まで遠征したという説があるが、もともとインドネシア半島にいたオーストロネシア系の人々を指すとする見解が近年は有力である。
古マタラム王国は、10世紀初め頃まで続き、壮大なヒンドゥー寺院であるプランバナン寺院群を建設した。
929年には、東部ジャワにクディリ王国が建国され、交易の利権をめぐって、ダルマヴァンシャ王がシュリーヴィジャヤの覇権に挑んだが、結局1016年にダルマヴァンシャが殺害されて、シュリーヴィジャヤの勝利に終った。しかし、1025年に南インドを支配していたチョーラ朝のラージェンドラ1世の軍勢の遠征でシュリーヴィジャヤは打撃を受けたことで衰退することになる。
その後、ジャワでは、1222年にケン・アンロクによって、シンガサリ朝が建国された。最後の王クルタナガラのとき、元の使者が来たが、その顔に刺青を入れて送り返したので、元の皇帝クビライは報復として大軍を派遣した。ジャワ島は元の遠征で被害を受けたが、やがて元軍を撃退したヴィジャヤが1292年にマジャパヒト王国を建国した。
マジャパヒトは、名宰相ガジャ・マダのもと、14世紀から15世紀にかけて繁栄した。1365年に完成させた古ジャワ語の韻文叙事詩(カカウィン)『デーシャワルナナ Desawarnana(地方の描写)』(通称『ナーガラクルターガマ』Nāgarakertāgama(聖なる教えによって完成された王国))は、ジャワ島東部を本拠として今日のほぼインドネシア全域、フィリピンの一部やマレーシアを含めた広大な版図を支配したとするが、これは史書の筆法に過ぎず、それぞれの地域に一時的に影響力を行使した可能性は残るものの、これらの領域を同時に支配したわけではない。
イスラーム化の時代
東南アジアの諸王朝でイスラームの受容がはじまるのは、13世紀末頃のスマトラ島北部においてであり、その中心地はパサイ王国だった[3]。これに先だって、すでに11世紀頃にはムスリム商人の往来がはじまっており、彼らは現地の支配者層と密接な関係を築いていた[4]。
ジャワ島におけるイスラーム国家成立の歴史は、15世紀末のドゥマック王国にはじまる。イスラーム化しなかったマジャパヒト王国では、その末期に王ブラウィジャヤがムスリム国チャンパの公主を王妃に迎え、また、国内ではイスラームへの改宗を容認した。ブラウィジャヤはムスリムの経済力に太刀打ちできず、王朝の権威は低下した。
15世紀後半に建国されたイスラム国ドゥマック王国は、1478年にブラウィジャヤに宗主権を認めさせた。また、ジャワ北岸のイスラム化した港市国家もマジャパヒトから離反し、内陸部に勢力をもつマジャパヒトは、海岸に面した良港をもつ北岸の諸国への影響力を失った[5]。ドゥマックは16世紀前半にマジャパヒトを倒して、ジャワで最初のイスラーム国家になった[6]。ジャワ島西部でも、ドゥマック王国の支援を受けたバンテン王国がイスラームを受容し、ジャワ島全域でイスラームが浸透していった。
ジャワで活発な布教活動をおこなったのはワリ・サンガ(九聖人)といわれるスーフィー聖者たちであり、彼らはジャワの各地にプサントレンを作って、そこを拠点にジャワ人子弟を教育し、民衆レベルでのイスラーム浸透に積極的な役割を果たした[7]。
スマトラ島では、15世紀末にはすでに独立していたアチェ王国がイスラーム化しており、この海域での交易の中心地として発展を遂げた。また、16世紀前半には、マラッカ海峡に面するスマトラ東岸のほとんどの港市がイスラームに改宗していた[8]。
大航海時代の多島海
16世紀になると、大航海時代のヨーロッパ勢力が香辛料貿易の利益を求めてこの地域にあらわれるようになった。
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オランダ領東インドの形成
1602年、オランダ東インド会社がジャワ島に進出し、オランダによる植民地化の時代が始まる。オランダ人たちは前世紀にこの地域に到達していたポルトガルや、同じ時期にやってきた競争相手のイギリスを追いやってこの地域における主導権を握り、長い時間をかけて次第に支配地を現在のインドネシアの領域全体へと拡大していった。
マタラム王国の分割その拠点として1619年に制圧されたのがジャワ島のジャカルタであり、オランダ人はこの町をバタヴィアと改名した。18世紀には3次にわたるジャワ戦争によってマタラム王国を分割、保護下に組み入れ、ジャワ島の全域を支配下に置く。
19世紀に入るとナポレオン戦争によるオランダ本国の混乱もあって一時支配力が弱まるが、東インド会社が解散されてオランダ本国による植民地直接統治が始まり、オランダ人によるプランテーション経営が広まって経済的な搾取は強まっていった。この世紀にはオランダ人に対する反乱・抵抗運動も続発するがいずれも鎮圧され、オランダ植民地はかえって拡大を続けた。
オランダは19世紀末から20世紀はじめにかけておこったアチェ戦争に勝利し、スマトラ島の支配権も確立、この結果、ポルトガル領東ティモールを除き東インド諸島はすべてオランダ領となった。
民族主義運動の展開
20世紀初頭にオランダは従来の植民地政策を転換し、現地住民の福祉向上と、本国から植民地政府へ権限委譲をすすめる方針をとった。前時代の純益政策によって、植民地からオランダ本国に莫大な富がもたらされた一方で、植民地の現地住民の窮乏化がすすんだことを反省し、その恩恵を現地住民にももたらそう、という意図で始められたのが「倫理政策」と総称される一連の施策である。これによって、現地住民には初等教育の機会があたえられ、また、一部の住民エリートの子弟にはオランダ語での専門教育(行政学・経済学・医学など)の機会もあたえられた。彼らの多くは、植民地政府の末端を担う行政官となり、現地住民の福祉向上を担う医師となって、植民地国家の運営の一翼を担った[9]。
そのようにしてオランダ語で教育され、東インドに創設された大学や留学を許されたオランダ本国の大学で学んだ学生たちのなかから、民族の独立を志す者たちがあらわれた。その最初期には、ジャワの医学校で学ぶ学生たちを中心に、1908年に結成されたブディ・ウトモ(ジャワ語で「至高の徳」を意味する)のように、教育を通じてジャワ人の社会的地位を向上させようという、穏健な活動がはじめられた[10]。また宗主国オランダでも、東インド出身の学生たちが東インド協会 (Indische Vereniging) を結成し、出身地方の枠を超えた東インドの民族的一体感に目覚めていった[11]。
1911年に結成されたサレカット・イスラーム(イスラム同盟)は、当初は中国革命の進展によって東インドでの商業活動をにわかに活発化させた華僑商人に対抗して、ジャワのバティック商人が結成したものであったが、組織の主導権が商人層からオランダ語で教育を受けた知識人層に移ると、ジャワ島外にまで支部を結成して、東インド全体に広がる最初の大衆組織となった。サレカット・イスラームの指導者チョクロアミノトは各地で集会を催し、熱気のこもった演説とカリスマ性で熱狂的な人気を博した[12]。
第一次世界大戦を経て、サレカット・イスラームの会員数は200万人をこえ、独立と社会主義を掲げるようになった。このように組織の性格が変わった要因として、ロシア革命の成功も挙げられよう。1920年にはアジア初の共産党としてインドネシア共産党(前身は1914年にスマランで結成された東インド社会民主主義同盟)が成立し、コミンテルンに加盟した。インドネシア共産党は原住民党員をサレカット・イスラームに加入させ、その組織内部で共産党の影響力を強めていくという方針を立てた[13]。その結果、サレカット・イスラーム内の主流派と共産派の対立が激化し、民族主義運動の潮流は分裂し、大衆の運動離れを招いた[14]。サレカット・イスラームから排除されたインドネシア共産党は、その地方支部が1926年から1927年にかけて散発的に起こした武装蜂起によって、植民地政府による弾圧を招いた。党の指導者は海外へ逃亡するか、東インドに潜伏するなどしたため、以後の民族主義運動は、スカルノらが1927年に結成したインドネシア国民党など、世俗主義を掲げる民族主義団体によって担われていくことになった。
戦前のインドネシア民族主義運動の頂点となったのは、1928年10月27日に開催されたインドネシア青年会議における「青年の誓い」採択だった[15]。
われわれインドネシア青年男女は、インドネシア国というただ一つの祖国をもつことを確認します
われわれインドネシア青年男女は、インドネシア民族というただ一つの民族であることを確認します
われわれインドネシア青年男女は、インドネシア語という統一言語を使用します
ここにいたって、独立を求める人々は、オランダ領東インドの国名として、「インドネシア」の名を選び取り、この地域に住むさまざまな民族をインドネシア人として統一し、独立を達成する、という決意を内外に示したのである。